野辺山高原ができるまで
南には平沢峠があり北には市場坂がある
平沢、野辺山、板橋、市場、海ノ口と続く道は
“信玄の棒道”の一つで武田氏が信濃に侵攻した道
のちに佐久甲州街道(現在の国道141号)となる
江戸時代はじめは現在の野辺山地区の一部が開墾されました
寒さが厳しかったため作物が実らず土地は荒れていた
峠の南の平沢と千曲川に臨む海ノ口の両集落の間
約13kmには江戸時代初期までは全く集落が無く
冬季の交通が危険なので旅人保護の趣旨により
幕府は1605年(慶長10年)板橋村を入植させました
甲府藩主徳川家宣が貞享3年(1686)に
1軒につき2人分の扶持米を与え
板橋村から2軒、平沢村から1軒を移住させ
茶屋を3軒建てさせた設け扶持米を給し三軒屋としました
(野辺山宇宙電波観測所の近く矢出川公園がある近く)
茶屋は明治4年(1871)まで続けられ
その間には2度の火事がありその度幕府により再建されました
現在では3軒の井戸跡のみ残っています
海ノ口から上がった所にある市場は
馬の市場が開かれていた所で
清仏戦争の後に仏蘭西兵の用いた軍馬は
吾陸軍省の手で買取られて海を越して渡って来ました
その中の十三頭が種馬として信州へ移されました
そのうちの気象雄健なアルゼリイ種の馬匹が
南佐久の奥へ(野辺山原市場)入り ました
野辺山原の農業開発は
小海線の全線開通に伴う昭和10年の
野辺山駅竣功を契機に
板橋地区で白菜・キャベツ・大根の栽培が試みられました
酪農と蔬菜の農業は高冷地農業の権威者といわれた
大滝武夫博士によって
昭和14年野辺山駅付近の国有地に
北欧型の試験場が開かれたことに始まるが
地力不足や霜害などであまり成功しなかった
第二次世界大戦が始まると
砲兵隊の演習地や予科練の生徒を対象とした
文部省の初級グライダー練習場が
国有地の立木を伐採したり
南牧村・川上村の入会地を
強制買収したりしてつくられました
そこへ送り込まれたのが
「三重海軍航空隊 野辺山派遣隊」でもあった
戦後その跡地の一部が野辺山宇宙電波観測所や
信州大学農学部附属アルプス圏フィールド科学教育研究センター
野辺山ステーション(旧・野辺山農場)及び
筑波大学農林技術センター八ヶ岳演習林
といった教育・研究機関も立地する使われている
戦後、復員軍人・海外引揚者・戦災者など約170世帯が
農兵隊の耕作していた旧大滝農場60町歩を
中心とする旧軍用地に入植し
緊急開拓事業として本格的な開拓が始まりました
しかし、取得した土地は360町歩に過ぎなかった
厳しい気象条況や土壌改善がはかどらなかったりで
かなりの入植者が離れました(約2年で50世帯まで減少)
残った入植者は政府の構造改革事業に先駆けて
自立経営規模10町歩の確保を目指し
軍用地中旧地元入会地や文部省土地の解放運動を行って成功し
農家の分散計画も進めて昭和32年頃にはほぼ基盤整備を終えました
野菜の栽培に使う堆肥を得るため
1953年(昭和28年)にニュージーランドから
14頭のジャージー種(乳牛)が輸入されました
振興対策事業が始まり
野辺山駅前の46 戸が計画的に移転し
散村景観を呈するようになりました
1960年代後半より牛乳価格の下落により酪農は衰退するが
残った酪農家でヤツレンが創立されました
野菜栽培は増加を続け
野辺山は日本を代表する高原野菜産地となりました