平賀源心胴塚
野辺山宇宙電波観測所の南の平沢峠(1450m)から
平沢・清里方面に少し行った所に
平賀源心の胴塚がある
(『甲陽軍鑑』などによると
平賀源心の名は「平賀玄信」と記されている)
天文5年(1536)に
海ノ口城で平賀源心(成瀬)を討ち取り
初陣の武田信玄(晴信)が
源心の胴を埋めたとされる場所
埋めた理由は戦死した源心の体が
あまりにも重かったためとする説が有力
信玄が源心の武に感じ入り
石地蔵を建てまつったという説もある
平賀源心は70人力の大剛強の兵者で
4尺3寸(約130センチメートル)の刀を
使っていたと言われている
信玄初陣の話は伝承化及び英雄視されたもので
平賀源心の存在自体も疑問視されているとも言われる
(『甲陽軍鑑』)
海ノ口城で平賀源心成瀬は
武田晴信(信玄)の奇襲に遭い戦死したという
これは武田晴信の16歳の初陣での功である
武田信虎・晴信親子は8千余の兵を率いて海ノ口城を攻めた
平賀城主・平賀源心は
海ノ口城に加勢に来ていた猛将で
怪力無双で四尺三寸の大太刀を振り回すと言われた武人
佐久郡の地侍3千余で弓矢や石礫を投げ
地形を利用したゲリラ戦法で防戦したため
海ノ口城はなかなか落城しなかった
武田軍は正月を目の前にした26日帰陣したが
晴信は父信虎に願い出て殿となり夜中に取って返し
敵の油断を突き手勢3百余りで海ノ口城を攻め落した
武田軍の撤退を見て喜んだ平賀源心は佐久の地侍をそれぞれ
正月の年とりのために家に返していたという
晴信は源心の亡骸をここまで運んできたが
あまりに体が大きくて重いので
首実検のためにここで首を打ち落とし
胴はここに埋めて首だけを持ち帰ったという
晴信は父の信虎に褒められると期待したが
厳しく叱責されたという
それは軍律を破ったからか
奪った城を捨てて帰ってきたからかは分からないが
その後この親子の仲が悪くなったのは事実である
武田晴信は後に出家して武田信玄と名告る
「信」は武田氏の通字である
初陣で平賀源心(平賀玄信)を討ち取ったことで
「玄」は「平賀玄信」から採ったのではないかと言う説もあり
江戸中期に活躍した「平賀源内」は
「平賀源心」(平賀玄信)の子孫とされている
白石家は讃岐高松藩の足軽身分の家で
元々は信濃国佐久郡の豪族(信濃源氏大井氏流平賀氏)だったが
佐久郡海ノ口城において滅ぼされた
後に平賀氏は奥州の白石に移り伊達氏に仕え白石姓に改め
さらに伊予宇和島藩に従い四国へ下り讃岐で帰農した伝承がある
源内の代で姓を白石から平賀に復姓したと伝わる